昙鸾の五念门における止観とその背景——藤村洁

はじめに

昙鸾の『浄土论注』を寻ねる上で、最も注意せねばならない一つに「五念门」という课题がある。五念门とは、『浄土论注』に以下のように説かれる。

上の三门を成じて下の二门を起こす。何の所にか依る。何の故にか依る。云何が依る。何の所にか依るとは、修多罗に依る。何の故にか依るとは、如来は即ち真実功徳の相なるを以ての故に。云何が依るは、五念门を修して相応するが故に。上を成じて下を起こすこと竟ぬ。(1)

「三依釈」と呼ぶものである。すなわち、昙鸾自身が世亲の『浄土论』「愿生偈」の句に依るべき所を、「何」、「何故」、「どのようにして」と三つに分け、示したものである。その三つとは、第一に対象としての教证(教えに依る确かめ)、第二に理由としての理证(理论的证明)、そして第三に実践としての行证(上二つを合わした展开)である。したがって、そのことを集约するなら、教证は『无量寿経』の修多罗に依る、理证は真実功徳相に依る、行证は五念门を修することに依る、ということである。つまり、ここでの「三依」の视点でも看取できるように、昙鸾における五念门とは、正しく世亲の『浄土论』を実践?方法として了解したと言えよう。

『浄土论』で説く五念门とは、礼拝?讃叹?作愿?観察?回向の五门から成立する。先の文に示しているが、昙鸾の五念门行とは、世亲の「愿生偈」の句を踏袭し、二者の侧面から明かす。前者は上三门(礼拝?讃叹?作愿)を成就すること、また後者は下二门(観察?回向)を発起するということである。就中、世亲が『无量寿経』に依って「愿生する」意図とは、このような意味を踏まえている、と昙鸾はそう理解する。

本来、五念门行とは、『浄土论』长行で説かれる如く、善男子?善女人(优婆塞?优婆夷)、もしくは(「善巧摂化」から)菩萨が主となって、五念门の因の行を渐次に修めることである。そして、その因によって五功徳门(近门?大会忻

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