法蔵菩萨论―唯识思想を通して

同朋大学∵花栄

はじめに

本论文では「法蔵菩萨论」という课题において、曽我量深以外は谁も「法蔵菩萨阿頼耶识である」と言っていない。つまり、曽我量深は『大无量寿経』(以下『大経』)にある法蔵菩萨を単なる神话ではなく、现在の信の事実であると示そうとしているのである。その过程で曽我量深は『唯识论』にある阿頼耶识と『大経』の法蔵菩萨を见ていくことによって、阿頼耶识が法蔵菩萨であることを明らかにしたのである。本论文では「法蔵菩萨阿頼耶识」説を课题にし、推考し、寻ねていくことにした。

第一章∵法蔵菩萨

第一章では、法蔵菩萨を取り上げた。まず、『大経』における法蔵菩萨物语を取り上げ、法蔵菩萨と阿弥陀仏についての见解を示した。この物语を通して、法蔵が阿弥陀となったことを寻ねた。この物语は釈尊が『大経』のなかで弟子に説いた物语である。その物语としての背景には、锭光如来、光远如来、月光如来、栴檀香如来、善山王如来といった。五十三の仏が、昔々にこの世に现れ、浄土を开き、猩蚓趣盲郡趣いΔ长趣ⅳ搿¥饯筏啤⑽迨姆郡耸雷栽谕鮼枻浅·筏俊¥饯问薄ⅳ长问雷栽谕鮼枻握h法を闻いた一人の国王は、法蔵と名仱辍吠沥蚩生を救うとした。法蔵菩萨は、世自在王仏に出逢って二一〇亿の诸仏の浄土、すなわち极楽浄土を开こうと、苦労して、时间をかけ、四十八の愿を建てたのである。『大経』では、人间を救いたいという愿いが贯ぬかれている。仏法は、决して偶然に説かれたのではなく、古き仏の人间救済の愿いから生起し、代々仏たちによって受け続かれ、新たな姿で説かれようとしている。釈尊は、そういう愿いを背景に、仏法を説こうとし、弟子たちも真剣に闻いた。こうして弥陀の愿い、さらに过去五十三仏の愿い、昔々の愿いが、延々と受け伝えられて、ようやく今私たちに仏法が届いたと、弟子たちはそう受け止めたのである。

『大経』は法蔵が阿弥陀となったということを弟子に説いた物语である。阿弥陀が法蔵となったという侧面から见ると、法蔵菩萨が本愿を建て、その本愿が成就するための修行をし、それが成就して仏になったのである。法蔵菩萨が修行して阿弥陀になったことを因と果ということからいえば、因の位は法蔵であり、果の位は阿弥陀となる。

第二章阿頼耶识思想

第二章において唯识思想の中、阿頼耶识について述べた。唯识思想を述べた理由は、曽我量深が唯识と『大経』の法蔵菩萨とを照らし合わせて解釈しているからである。そこで、曽我量深は唯识の中の阿頼耶识についてどう捉えているのかを示した。

唯识とは「唯だ识のみ」ということである。横山紘一の『唯识思想入门』によると、唯识は「意识の构造论」に相当することが示されていた。

『唯识三十颂』『成唯识论』から见てみると、前六识は眼?耳?鼻?舌?身?意识の六识のことである。これに第七识末那识、第八阿頼耶识を合わせて八识という。前六识は第三能変ともいう。その六识は眼识は色境、耳色は声境、鼻识は香境、舌识は味境、身识は触境、意识は法境である。第七识未那识は第二能変である。未那识は自己中心性の轴ともいえるから、阿頼耶识で狭められた世界をさらに狭くする。末那とは思い量る、思量するという意味である。思い量るのが、このこころの本性であり、また现実の働きでもある。阿頼耶识が蓄えるというのが基本の性质であるのに対して、未那识は思量するというのがすべてである。未那识はいつも働いている心でありながら审らかに我を考えている。自分の损得の计算を忘れないので、烦恼ともいえる。未那识は、第八阿頼耶识を依り所とし、第八识が働いて転起し、第七未那识となり、そのもとである阿頼耶识を対象として自我の虚像を构画し、それに执着するところで捉えられる。次に、第三能変阿頼耶识についてである。阿頼耶识には异名があり、异熟识、一切种子识の名がある。阿頼耶识を説明するには、三相について述べる必要がある。三相とは、阿頼耶识に具せる三つの様相であって、自相?果相?因相というものである。阿頼耶识には、能蔵、所蔵、执蔵の三つの意味があり、それらをすべて合わせて自相という。阿頼耶识の异名である异熟というのは、阿頼耶识の果相につけられる名である。异熟识とは、过去の业の结果としての自己であり、それは过去を背负っている人间ともいえる。因相とは现在を因として未来を果とするという一切种子识である。人间の体験の影响がすべて种子として植えつけられるのは、阿頼耶识そのものが善でも悪でもないから无覆无记ともいえる。

第三章往生浄土―阿頼耶识をめぐって

最初に、曽我量深の「法蔵菩萨阿頼耶识」説について松原佑善、寺川俊昭、小野连明の见解からみて、平川彰への批判の误りを指摘した。次に、往生浄土ということを阿頼耶识の视点から述べた。唯识思想の展开において、存在するものは唯だ识のみであるとさとり、その识を智慧に転换することが、、円成実性になること、言叶をかえれば真如をさとることである。このように、本论文では、「法蔵菩萨阿頼耶识」説という曽我量深の言叶はどのような意味を持ち、我々に対してどのような教えがあるのかを考察した。

特に、曽我量深の「法蔵菩萨阿頼耶识」説から考察し、曽我量深の説によって、法蔵菩萨の物语は非神话的に解釈され、さらに我々は信仰的自覚が问われ、救済されていくことが示された。

最後に往生浄土について述べた。唯识でいう「転识徳智」とは、识という认识作用を転换し、一切の现象物事をありのままに観る「智慧」である。この「识」から「智慧」への変换を阿頼耶识の根本识からみると、有漏から无漏へという転换になる。すなわち仏教ではこの「识」を「智慧」へとシフトし、釈尊の真理を得ようとするのである。それが唯识仏教の立场でもある。つまり、自己の本能に生きる存在(阿頼耶识)のあり方が迷いから覚りへと転换し、人间存在全体が究极的真理を证得できるかできないかというところに唯识の修道実践の意味内容が见えてくる。この点で考えると、亲鸾教学と若干异なってくる。しかし唯识の识を転じて智慧を得るという侧面は、『教行信证』の中、転悪成徳という意味と重なると言える。つまり生死から涅盘へと転换する根拠とは、如来の本愿力のはたらきによって摂取不舍されて、凡夫が浄土に往生する歩みに他ならないからである。さらに、我々の生きる根源にはたらく力になっているのである。

転ずるということを上田义文は、「転依については不退位である。(不退)というのは、真に超越界に入ったものは、二度と元へ戻ることがないという意味である。完全に入りきらなかったら生死界へ戻ってしまう可能性が残るからである。不退の位に入った後も転换の过程はつづき、究极の仏位に至るまでの修行の全过程が転依と呼ばれる。」とあらわしている。

以上のように、唯识でいう転识徳智とは、识という认识作用を変革し、物事を真実にみる能力、この识から智への変化を指す。すなわち我々はこの识を智へ変革し、その智を身につけなければならないということを明らかになった。これを浄土真宗でいうと「転悪成徳」であるが、転成とは、いわゆる猩巫飷櫺预浞硱樞预蚨厦黏贰⒊嗓颏胜工趣いσ馕钉扦ⅳ搿¥工胜铯痢⑷缋搐伪驹负¥藫敜崛·椁臁ⅳ筏猡饯欷缋搐伪驹噶Δ蝺Pきであり、我々の生きる力になっているのである。

おわりに

以上、「法蔵菩萨」「阿頼耶识思想」「往生浄土」の顺次に考察してきた。特に、曽我量深の「法藏菩萨阿頼耶识」説によって、法蔵菩萨の物语は非神话的に解釈され、さらに我々の歩んでいく浄土に往生する道を明らかにされた。そのことによって、我々は信仰的自覚が问われ、法蔵菩萨の愿心に目覚めて、救済されていくのである。

その视点から、唯识でいう「転识徳智」と亲鸾の『教行信证』でいう「転悪成徳」という両者の転换の思想が本质的には同じであると理解することができるのであろう。

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