「无学祖元の女性教化と女人往生観」

要旨

无学祖元は、中世期における渡来僧の一人であるが、その门下からは中世に杰出する尼僧、无外如大が出ている。また、その女性参禅者が多いこともすでに指摘されている。

平安时代に仏教思想が流布される过程で、仏教は女性を秽れたものとする思想を明确にし、尼寺も着しく衰退した。そこで、女人往生を否定する教説が着しく强调された。しかし平安末期から鎌仓时代にかけて戦乱が频発し、夫に先立たれた女性が仏教に救いを求めるようになると、仏教はそれまで否定してきた女人往生を考えざるを得なくなった。いわゆる、鎌仓新仏教の开祖たちもそれぞれに女人往生説を展开している。ここでは、无学祖元の语録『仏光円満常照国师语録』より、无学に参禅した女性と、无学が彼女らに与えた法语などをもとに无学の女人往生観について考えたい。

中央民族大学外国语学院日本语系外籍専家

渡邉∵索

はじめに

従来、前近代における女性の地位は低いと见られてきた。今日の日本中世史研究においては必ずしもそうではない、特に女性が财産相続権を有していたことに注目して女性の地位はある程度保障されていると考えられている。

一方で仏教における女性差别は厳然として存在し、それについてもこれまで様々な研究が行われてきた。概して前近代の仏教がいかに女性を差别してきたかを解き明かしてきた。中世についても、既に女人往生や尼僧、女性参禅者といった様々な観点から中世仏教がどのように女性を捉えたか明らかにせんと试みられている。しかし、それらに言われているとおり、女性に触れた史料は少なく、中々全体像を明らかにすることは困难であると言える。

中世の女性像を明らかにするには経済的な侧面ばかりでなく、様々な要素を合わせて総体的に判断しなければならないはずである。その中でも仏教の位置付けは重要だと思われる。なぜならば、「宗教における性差别问题は、宗教のみの问题领域にとどまるものではありえない」のであり、「宗教とは、それに基础づけられて形成された文化パラダイムの中核として、そのパラダイムに生ずる一切の世界観、価値観、人间観、モラルなどから社会制度、性规范、主体形成のあり方をまで支配する力をもつもの」だからである[1]。つまり、前近代の人々を支配する仏教の女性観を明らかにすることで中世における女性の地位を精神文化的侧面からとらえなおすことができると考えられる。

中世には剧的な时代の変化に相関していわゆる“鎌仓新仏教”とかつて呼ばれた仏教の新潮流が発生した。それらの新しい仏教思想は女性を取り巻く中世の时代状况に影响され、あるいは时代の女性観を规定していたはずである。

ここでは、中世に中国より渡来した禅僧?无学祖元の语録を頼りに、无学がどの様に女性を捉えていたか考えてみたい。同时にこれによって中世女性像を捉え直す一つの端绪になればと考えている。

1、古代から中世にかけての女性と仏教

まず、中世までの仏教のもつ女性観を概観したい。

日本の仏教史上、女性を忌む思想は平安时代に入っていっそう明确になった[2]。8~9世纪顷、尼僧は国家の仏事、法会の场から缔め出された。ここにおいて官僧と官尼という対応関系が崩れ、尼寺の僧寺への隷属も进行した[3]。

女性を秽れた存在とし、忌避する考え方は日本社会への仏教の浸透と共に强く定着したと考えられる。仏教の清浄を护持する考えが、女性の生理や出産による出血を秽れと见て忌んだ[4]のである。一方で仏法が王権に入り込む中で、既に王権に结びついていた神信仰の持つ仪礼とタブーを取り込む必要に迫られ、寺内における秽れの排除が行なわれるようになった。女性差别の形成という点では仏教と神信仰は相互补完的役割を果たしたと考えることができそうである。

さらに、平安时代を通して、仏教が人々の生活に入り込んで来るなかで女性蔑视の思想もまた人々の间に流布され定着した。とりわけ象徴的であるのが血盆経の流布である。血盆経は10世纪以降に中国で成立したいわゆる「伪経」だが、道教にも取り入れられて広く流布し、さらに日本に伝播した[5]。ここでは、女性は月経、出産の出血による秽れから死後血盆地狱に堕ちると説かれ、血盆経をその苦しみから免れることができると言う。女性は生れながらにして秽れており必ず地狱に堕ちるというのである。

そもそも仏教は“五障”として「梵天?帝釈天?魔王?天轮圣王?仏」になれない、つまり、女性は仏教世界の指导者にはなれないとしており、女性は、悟りを得ることが出来ない=仏になれない=往生できないと、女性の往生を否定している。その理由は『法华経』によれば「女人は垢秽にしてこれ法器に非ざる」からとある。これでは现世で如何に高い徳を积んでも悟りを得ることは出来ず、往生は叶わないことになる。既に述べたように8、9世纪に尼寺が衰退したが、それにより女性の幼少期における出家は例外的になった。一方で、老病死に际して现世や来世での救済を愿う、临终出家が主流になったのである。

しかし、平安末期から鎌仓时代にかけて近畿のみならず全国に戦乱が相次ぎ、夫を戦争で失った。出家女性が急激に増加した。古代では出家は婚姻関系を否定するもので、离婚の一形态として出家が行われていたのに対して、夫の死後に再婚を拒絶し夫妇関系を継続し夫の菩提を吊うという新しい女性の出家に対する考え方が定着したことによる。いわゆる“後家尼”の出现[6]である。结果、戦死した夫の菩提を吊うため出家する武家妇人が増加し、“後家仏教”の様相を呈してきた。“鎌仓新仏教”、中世仏教の担い手たちは、女性の救済、“女人往生”の问题を考えざるを得なくなっていたのである。

2、中世仏教开祖の女人往生観

中世仏教开祖たちの女性観はどのようなものであっただろうか、以下に示してみる。

法然(浄土宗开祖)の场合、善导の「弥陀の本愿力によるがゆえに、女人も仏の名号を称すれば正しく命终の时、则ち女身を転じて男子となることを得、仏の大会に入りて无生を证吾す」(『観念法门』)を受け、既存仏教が、五障三従によって女人の成仏の道をふさいでいると强く批判。特に教団を支える多くの女性信者が居た[7]事が分かっている。その主张は阿弥陀の力によって女性は男性に変化して成仏できるという“変成男子”による成仏である。

亲鸾(浄土真宗开祖)は「弥陀の大悲ふかければ、仏智の不思议をあらわして変成男子の愿をたて、女人成仏ちかひたり(『大経和讃』)」、「弥陀の名愿いによらざれば百千万却すぐれどもいつつのさわりはなれねば、女身をいかでか転ずべき(『善导和讃』)」とあり、法然と同じく変成男子による救済を説いた。一方で「男女大小闻きて、同じく第一义を获しめむ。…まさに知るべし诸の猩稀⒔预长烊缋搐韦长胜辏ā盒盼睦唷唬工趣ⅳ毪胜赡信降趣瓮蛘hいており一定でない。さらに亲鸾が妻帯していたことは有名だが、亲鸾には「女犯」[8]の観念があった。また、真宗教団には尼は居ても尼寺はなく、寺の主人たる僧を坊主、妻尼を坊守として扱った。

日莲(日莲宗开祖)の场合、「此の経持つ女人は一切の女人にすき(过ぎ)たるのみならず一切の男子に越へたりとみて候(「四条金吾妻宛书状」[9])」とあり、『法华経』こそ唯一の救い、女性を救う教えであると主张した。これによって、法然らの浄土教説は女人を助ける法ではないと批判している[10]。『法华経』は日莲によって女人救済の法と解されたのである。

では、中国からもたらされた禅宗においてはどのように女人往生が説かれたのであろうか。入宋して曹洞禅を伝えた道元の场合、在来仏教が行ってきた女人结界を鋭く批判し、男女共に求道心あるものは平等と主张した。また道元は教団に多くの尼僧を迎えた。さらに「男性を惑わせる女性が秽れているのではなく、女性に惑わされる男性が秽れている」という现代にも通じる斩新な教説を展开した。しかし、「女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず」と言うなど女人の往生には否定的でありその往生は変成男子[11]によるとした。

これまで、中世仏教开祖たちの女人往生説についてみたが、その共通する点は既存仏教の女人结界への批判と、“変成男子”による女性の往生に见ることができる。

中世には宋元との民间贸易の拡大にともなって僧侣の往来が频繁になり、特に中国から禅宗の高僧が来日したことが时代のトピックとなっている。これらの僧侣は日本に大陆最新の仏教教学もたらした。中国から来化した渡来僧は女人往生の问题にどの様に対処したのであろうか。宋朝より来日した无学祖元の门下に无外如大という尼僧がいる。彼女は无学临终に际して「後事を托す」(『佛光国师塔铭』)とまで言われ、後に尼寺を官寺として组织した尼五山で开山になる。如大については「その存在は日本女性史?宗教史上极めて重要な存在として位置付けられる[12]」とされている。

以下、无学祖元の女人往生観について少し考えてみたい。

3、无学祖元について、その来歴と教化の态度

まず、无学祖元その人について绍介したい。

无学祖元は、俗姓は许、讳は祖元、字は子元、後に无学と号した。1226年、庆元府に生れる。早くに出家し、径山无准师范以下诸知识に歴参している。1269年、真如寺の住持になった後、天童寺などに歴住した。1279年、北条时宗の招聘により来日し、建长寺に住した。その後、円覚寺を开くなど日本仏教界で活跃し、南宋禅の普及に勤めた。1286年、60歳で没するまで「度する弟子三百、余嗣法者小⒔怨饷魇⒋蟆工妊预铯欷毪瑜Δ硕啶胃呱蛴皮俊C畔陇烁叻孱嚾栅胜嗓胃呱い搿K泪帷柟鈨覝撼U展Δ蜃吩丹臁⒁话悚藖柟夤Δ群簸肖欷搿

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