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提要

日本天台宗宗典刊行会编纂の『伝教大师全集』の第四巻の中に、伝教大师最澄が编集したと伝えられる文集――『天台霊応図本伝集』が収められている。この文集は、元十巻本であったと思われるが、现行本はいずれも上下に分けられる二巻本である。下巻の中に、それぞれ、作者や文体を异にする四つの文献が収められているが、そのうちの一篇が「天台大师略伝」と题されている。この「天台大师略伝」は、すなわち本论文で取り上げられる主题である。

「天台大师略伝」という文献について、多くのことが知られてこなかった。例えば、その作者も不明であり、更に、「天台大师略伝」という名称が目次に见えるものの、本文に当たる内容が现行本に见当たらないと考えられてきたのである。そこで、本论文は、『天台霊応図本伝集』の内容に対する比较と分析を慎重に进めることによって、本来「天台大师略伝」に相当する文献内容を『天台霊応図本伝集』の中から见出そうとした。いったん、内容の确认に成功すると、その内容に基づいて、本文献の原作者も次第に判明でき、更にその文献が如何なるルートで日本に伝来して、『天台霊応図本伝集』の中に収録されるに至ったのかも推测できると考えられる。このような考察を通して、中国唐代成立の资料を温存した『天台霊応図本伝集』に対する注目を呼びかけることができると幸いである。

关键词:1.天台霊応図本伝集2.天台大师略伝3.智顗4.道宣5.最澄

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【目次】

はじめに

第一、「天台霊応伝図」と『天台霊応図本伝集』

第二、「天台大师略伝」の本文

第三、「天台大师略伝」と『大唐内典録』

第四、「天台大师略伝」と『天台山六祖略伝』

结论

附録

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はじめに

『伝教大师全集』(以下『伝全』と略す)第四巻に、『天台霊応図本伝集』(以下『霊応伝』と略す)という书が収められている。『霊応伝』はもともと十巻构成の书であったと伝えられているが、现行本はいずれも二巻のみの残卷である。その第一巻には、孙兴公(孙绰、314-371)「游天台山赋」と章安灌顶(561-632)「天台山国清寺智者大师别伝」とが载せてあり、第二巻には、①顔真卿(708-784)[1]「智者大师伝」、②道澄[2]「智者大师述讃〔并〕序」、③「天台大师略伝」、④昙羿[3]「国清寺智者大师影堂记」(以下「影堂记」と略す)といった四种の文献が収録されている。

その中、本论文で取り上げるのは、『霊応伝』第二巻に収められた「天台大师略伝」(以下「略伝」と略す)である。『霊応伝』所収の文献は、それぞれの着者や文体などを异にしているところに特徴があるが、その中で、「略伝」が特に注目されるのは、着者が未详であることだけではなく、「天台大师略伝」という题が目次にのみ示され、本文は见当たらないからである。『伝全』本では、「略伝」の前の「智者大师述讃并序」と题される文に引き続き、すぐに「略伝」の次の文である「国清寺智者大师影堂记」が现れ、『伝全』本の体裁を见る限り、「天台大师略伝」の本文は欠落しているのである。しかし、果たしてそうなのであろうか。本论文においては、この问题についての解答を试みる。

论述は概ね以下の基础作业より构筑される。すなわち、先ずは『霊応伝』∵

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という文集について概説した上で、その所収文献の内容的な混淆、错误を确认し、そして、『霊応伝』の中に隠没している「略伝」の文献内容の剔出を试みる。更に、上述作业によって浮かび上がってくる「略伝」の文献内容をほかの仏教史料と照らし合わせながら比较.分析していくことによって、同文献が、最初は如何なる史料の一部をなし、そして如何なる形で日本に伝来したのかを考察していく。この考察の目的は、『霊応伝』における「略伝」という文献の性质を确认することと、さらには贵重な文献を保存している『霊応伝』への注意を唤起することにある。

第一、「天台霊応伝図」と『天台霊応図本伝集』

纪元804年、伝教大师最澄(766-822)は入唐し、天台山国清寺所蔵の天台霊応図と呼ばれる絵画の模本を入手、それを日本に齎したと伝えられる。その伝来记録は、最澄の『传教大师将来台州録』[4]「进官録上表」[5]、特にその目録本文に「天台山智者大师灵应图一张」[6]と明记されている。けれども、この絵画に関する情报は、885年成立の安然『诸阿闍梨真言密教部类总録』[7]の记载[8]を最後にして、完全に絶たれてしまうこととなる。现在でも唯一、絵の内容を髣髴とさせてくれるものは、最澄编と伝えられる『本伝集』という文集である。

『本伝集』は元、题目の通り、天台霊応図に附された、いわば解説书の役割を果たす文集であったようであり、その絵の内容に関して、本书の序文は以下のように记している。∵

今图像者、天台智者霊応之図也。模国清蔵本、写贞元仲冬。城则隋都.陈京、寺则国清.玉泉。加以山称天台.青溪、江乃扬子.临海。其峰石桥.瀑布、造化所造。其槌金地.银地、两师所居。坠松门松、大风不韵。渓水江水、大雨不涨。奇哉、马马不洗、其毛尚洁。人人不食、∵

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其身犹肥。梵僧唐僧、或行或坐。汉男秦女、卧室立门。不出庭戸、普知天下、其谓斯也。

これによれば、天台霊応図とは、天台智者、即ち智顗(538-597)にまつわる物语を具现化した絵画のように思われる。そして、智顗の生涯、または师の灭後における国清寺の建立などを概括するために、时代的には陈隋の両朝、空间的には南の金陵(陈京)より北の长安(隋都)に亘る场面、特に天台山などを中心とした一连の场面が描かれている様子が伺える。

これだけの豊富な内容を収めるためには、大师の生涯を象徴する典型的な出来事だけを、そしてかなり抽象的な手法で描写する必要があったであろうと想定される。したがって、後世の人に个の絵を理解させるためには、文章による解説を附する必要性が生じたのであろう。前文に引き続いて、∵

然图像略画、不传难解。所以略集本勒成十卷、号曰「灵应本传集」、以副「应图」、流布来缘。伏愿令一览者、萌三德性、令两看者昇一乘车。但此传数本、广略不同。孟子多疑、悉存众本。冀莫厌繁重、赞佛赞人、人赞功重。是以聚我师德、敬系来缘。云尔。

とある。このように、霊応図は、解説しなければ、图像だけでは理解しにくいであろうという配虑から生まれたのが『本伝集』であった。编集者が智者大师の伝记资料を、おそらく可能な限り集めて十巻の书物にまとめあげ、それを「灵应本传集」と名づけたことがわかる。そして、これらの资料には、分量の大きいものもあれば、短篇のものもあり、互いの内容が重复する部分も少なくない。しかしながら、霊応図そのものが失われた现在では、『本伝集』编集者の「聚我师德、敬系来缘」という敬虔な愿いは、文字で絵の内容を伝えると共に、贵重な唐代の文献を伝承させた、という意味では実ったと言えよう。∵

本书の日本における流伝に関しては、914年に成立した玄日编『天台宗章疏』[9]にみえる「天台灵应传一卷(传教述)」[10]という记载が最も古い。∵

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その後、1094年成立の永超『东域传灯目録』[11]には、「天台灵应传十卷(最澄集)」[12]と「灵应图集传十卷」[13]と前後二个所に记载されている。『天台宗章疏』には一巻、『东域传灯目録』では十巻と异なる调卷が记されているが、この卷数の相违が、同一の内容を持つ文献の调卷上の违いなのか、それとも年月が経つにつれて文献の内容が増补されたことによって生じたのかは定かではない。ただ、现行本が二巻构成のものであり、そしてその序文には「略集本勒成十巻」と明记されているため、现行本の内容は元十巻本の一部を为していた、という可能性のほうが高い。

『本伝集』には七つの写本の存在が知られている。

所蔵现存巻数识语1山梨県身延山図书馆蔵第二巻のみ[14]不详2叡山文库真如蔵书全二巻(2册)无[15]3比叡山実蔵坊全二巻不详4京都妙法院全二巻不详5叡山文库横川别当代蔵书全二巻(1册)享保癸卯(1723)秋九月行光冲寂天写之6叡山文库无动寺蔵书全二巻(1册)①享保癸卯秋九月行光冲寂天写之

②此灵应传集一二合卷者予能化山门西谷行光坊第二十六世以渊冲法印写本写之也

延享改元甲子(1744)冬十一月下旬西山善峰寺谷坊圆徴

③文化十二年乙亥(1815)八月以善峰寺谷之坊之本令书写之

台岳法曼院大僧都真超

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7鱼山胜林院全二巻文化十四丁巳年(1817)十二月豪雄师写本

このうち、6は『伝全』本が校定する际に用いた底本であり、1、3、7はその対校本であるが、4は再刊时に使われた対校本である。[16]

第二、「天台大师略伝」の本文

『霊応伝』巻二の目次[17]によれば、顔真卿「智者大师伝」と道澄「智者大师述讃」に引き続き、「天台大师略伝」という文献が収められているはずである。しかしながら、『霊応伝』の本文を一见すると、「智者大师述讃并序」の直後に、「国清寺智者大师影堂记」の内容が続いている。そのため、现行本では、目次に题名が示されてはいるものの、本文そのものを欠いていると考えられてきたのである。[18]しかし、「略伝」は本当に伝わってこなかったのであろうか。例えば、その本文が『霊応伝』にあるほかの文献の中に纷れ込んで存在している可能性は考えられないのであろうか。つまり、「略伝」の前後に位置する文献の中に、文脉的に不自然な部分は存在しないのであろうか。

実际に、「略伝」の直前にある「述讃」の文献内容に着目すると、特にその最後の部分には、内容的に、少なくとも二つの问题が含まれていると考える。本论に入る前に、まずその问题点を示しておこう。∵

(前略)有高足之[19]灌顶法师者、即梁朝南平王之亲孙也。乃朝野鼎族、∵

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即[20]广贵子。奇才诞秀、超卓[21]独【祯。生而神异、七歳辞亲、日诵万言、幼读千巻。志稽効古、悟自天发。含吐洒落、聡哲若神。仪止冲和、天縦疎朗。徳茂松竹、行洁氷霜。陶贯群経、清贞卓茕。蓄泻瓶之徳、为***之上将。耳根不漏、聴覧无遗、前後补接、才闻一遍。以绍隆作性、以匡拯为心、架之以法桥、树之於大表。乃慨叹曰:「斯文若坠、将来可悲!」故若树若石、録而记之、传乎未闻、共期佛慧者也。[22]∵

天台大师讃:∵

「入胎呈瑞、降诞流光。大苏慧发、霊鹫因彰。

戒洽陈主、香传晋王。弁才无滞、禅定难量。

山□息孽、水族停伤。法化既普、缁门益昌。(下阙)」】

(前阙)罗尼门、照了法华、若高耀之临幽谷、说摩诃衍、似长风之游太虚。假令文字之师千群万惺⒀氨嗣畋纭⑽弈芮钜病#ㄏ侣裕

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